2009年7月20日月曜日

自由論


◆ミル著/山岡洋一訳『自由論』(2006,光文社古典新訳文庫)

読まず嫌いだったミル(高校の教科書か何かで見た肖像が醜かったからかもしれない)を読んでみた。
第1章 はじめに
第2章 思想と言論の自由
第3章 幸福の要素としての自由
第4章 個人に対する社会の権威の限界
第5章 原則の適用
という章立てで、第2章が論の組み立ても明快で力も入っている。世の中を生きていると、特に勤め人などしていると、反対意見などにいちいち耳を傾けるのが煩わしくなり、他人の言論を圧殺したくなることがある。そういう時には、ミルの議論を思い出せば少しは落ち着きを取り戻せるかもしれない。

思想と言論の自由を擁護する理由はいくつか挙げられているが、中でも、反対意見を禁じて論争がなくなれば正しい意見であっても生命力が失われるから、というのには感心した。「決着がついた問題は深い眠りにつく」(99ページ)。

ミルの文章はパラグラフが長く、数ページに渡ることも珍しくない。そして、少し話がくどい。

2009年7月12日日曜日

進化論の射程


◆エリオット・ソーバー著/松本俊吉+網谷祐一+森元良太訳 『進化論の射程 生物学の哲学入門』(2009,春秋社)

章立ては次のようになっている。
第1章 進化論とは何か
第2章 創造論
第3章 適応度
第4章 選択の単位の問題
第5章 適応主義
第6章 体系学
第7章 社会生物学と進化理論の拡張
7年ばかり前にドーキンスの『利己的遺伝子』やデネットの『ダーウィンの危険な思想』を読んでかぶれた身ゆえ、第4章と第5章、それに第7章あたりを楽しみに読み始めたのだが、全巻とてもおもしろく、たいへんためになった。キリスト教徒以外にはとても関心が持てないと思われた第2章のような話題でもしっかり読ませる内容がある。

ドーキンスやデネットの心酔者にとって、ルウォンティンといえば憎きグールドの腰巾着というか(エルドリッジとともに)助さん格さん的存在だが、著者ソーバーは一時そのルウォンティンの研究室にも籍を置き、共同論文も発表している。で、本書ではドーキンスについて多数の言及があり、特に上記第4章、第5章では予想に違わず論難の対象になっている(ちなみに、デネットの名は一度も出てこない)。

しかし、ソーバーの論述はその名のとおり実に冷静沈着で、説得力がある。intuition pump フル稼動のデネットとは全然ちがう。ドーキンスの扱いだって、デネットがグールド一味を遇する時のような「論敵」的なものではまったくない。「提唱者の態度や動機の適切性と理論そのものの妥当性とは別問題。肝心なのは人ではなくて命題」というスタンスが、繰り返し表明される。

生物学の哲学の教科書なのだが、随所でより広く科学哲学あるいは哲学一般に通じる視野のもとに、ヒューム、ポパー、パトナムなどを俎上に乗せて鋭いツッコミを入れている。

翻訳はたいへん読み易い。気になったのは、巻末の参考文献に一切邦訳のデータがなかったこと。入門書・教科書という性格からして、やはり配慮があってしかるべきだったのではないか(先日読んだ同じ出版社の本では、訳文は実に読みにくかったが、注で挙げられた文献の邦訳データの充実ぶりがハンパでなかった)。

74ページに「2619通り」とあるのは「26の19乗通り」の間違いだろう。107ページにも横のものを縦にする際のミスが見られた(「左側の論証」)。それから、誤植かと思ったら私が思い違いをしていただけだったのだが、'Maynard Smith' ('Maynard-Smith' に非ず)は、これで一つの苗字なのですね(Wikipedia注記)。

2009年7月9日木曜日

チャンドス卿の手紙


◆ホフマンスタール著/檜山哲彦訳『チャンドス卿の手紙 他十篇』(1991,岩波文庫)

ホフマンスタールの初期から中期にあたる、21歳から40歳までの短い散文を集めた本。

「人は死に直面した時にしかフルボディの現実を味わうことはできないのだ」と云わんばかりのニヒルな作風の最初期の小説から、死と向き合って日々を営む生命への共感に力点を移した「チャンドス卿の手紙」を経て、その後の作品ではこの種の共感(あるいはその不在)が様々な場面に敷衍される。

「詩についての対話」と題された一編での、象徴を犠牲との類比で捉え、これらをともに成り立たせているのは共感であると論じる件りは、たいへんインパクトがあった。

ホフマンスタールの云う「生命への共感」において、「生命」は半ば神秘、半ば科学の対象という鵺的存在である。そういう「生命」に対してなぜ「共感」が生まれるのかもよくわからない(何しろ神秘ですから)。・・・読んでいるうちにそんな不満を抱いたのだが、これは私のアプローチの仕方が間違っている。ホフマンスタールは別に生命論をやろうとしていたわけではないのだ。

「生命」というのは共感の対象に対して仮に与えられた名前にすぎない。ホフマンスタールの作品は読者を共感へと共振させる装置であり、共感の対象は作品の中で開示される、というか、その対象を名指すことができても、そのことにはあまり意味がない(『戦争と平和』を「ロシアの祖国戦争時代の貴族の話」と呼ぶことにあまり意味がないように)。

以上、ホフマンスタールの本質が掴めるかなと一瞬思って考えてみたのだが、「この人は作家です」に等しいトリヴィアルな結論に終わった。残念。