2009年6月27日土曜日
私という病
◆中村うさぎ『私という病』(2008,新潮文庫)
先週末テレビを見ていたら、千原兄弟が中村うさぎのプチ整形手術に同行するという番組をやっていた。中村うさぎという人のことは昔週刊誌のコラムか何か(たぶん「ショッピングの女王」)をちらりと読んで、「なんか危なっかしい人だなあ」という印象があった。そのテレビの番組も途中ちょっと見ただけだが、「突き抜けた人だなあ、おもしろいかも」と、アマゾンで「中村うさぎ」のトップに出ていたこの本を買った。
「デリヘル嬢をやってみた」という話で、そういえばそんな雑誌記事の広告を見た記憶もあり、それよりずっと前に「ホストクラブに通っている」という話もどこかで読んだ気がする。実はなんとなくずっと注目していたわけだ。
才気煥発な人かと思っていたが、一冊読んでみると、むしろ泥臭い、ある意味堅実な人。論理展開が冗長で辟易するところもあるが、「なるほど」と教えられるところは多い。
たとえば、女がミニスカートをはくのは、男を誘惑するためだけでなく、他の女への誇示でもある、とか。言われれば当たり前なのだが、私がおやじだからか思い至らなかった(さすがに、「オレを誘惑するため」と思ったことはないが)。
後半、「眠れる姫と魔女」(124ページ)あたりからが佳境だ。「お姫様な私」に対して「魔女な私」が「いい加減に夢から醒めてよ」と苛立つところを読みつつ心中で「そうだ、そうだ」と激しく同意したのだが、そんなことをしたら「シワシワになって死んでしまう」という現実を突きつけられると、グウの音も出なかった。
「突き抜けた女」の話と思って読み始めたのが、だんだんに世間との軋轢の中でもがく自意識の不幸と恍惚の話になり、けっこう身につまされて他人事ではなくなっていく。
勝者にもなれないけど、茨姫になってまで戦うこともなく、急激にシワシワにもならず、しかし時間をかけて緩慢にシワシワになっていくというのが、男女を問わず世間一般の多くの人だろう。著者がそうならないのは、すべてのことに白黒(勝者と敗者、敵と味方)をつけようとして、曖昧さを許さないからだろう。
意識もしないし積極的な内容があるわけでもないこの曖昧さのおかげで、私たちは急激に萎むこともなく生きながらえている。それは別に立派なことではないが、間違っているわけでもない。そもそもすべてに白黒がつけられるわけではないのだから。
理不尽や悪を糾弾する箇所には共感させられるところも多いが、著者が白黒つける性急さとそのコントラストの強さには違和感を感じた。勝者と敗者の意味(振り分け方)は時間が経てば変わるし、敵と味方だっていつのまにか入れ替わる。「敵」ってそんなに簡単に一般化できるわけでもないし、「味方」だってそんなにいいもんじゃないんじゃないか、と私は思うのだ。
でも、この人ならではの知見に満ちた、特に男が読んでためになる本だと思う。
2009年6月14日日曜日
ポポル・ヴフ
◆『マヤ神話 ポポル・ヴフ』 A・レシーノス原訳/林屋永吉訳(2001,中公文庫)
エドガー・ヴァレーズの「エクアトリアル」をナケント・ナガノのCDで聴き、その解説で歌詞が『ポポル・ヴフ』のスペイン語訳から採られていることを知り、早速本を手に入れて読んでみた(アマゾンでは品切れになっているが、HMVやセブンアンドワイではまだ手に入るようだ。私は書店で買った)。
この『ポポル・ヴフ』は、スペインによる征服後の16世紀に現地のキチェー語で(征服者から学んだ)アルファベットを使って書かれた文書で、18世紀にヒメ―ネス神父によって発見され西洋世界にもたらされた。それ以前にもマヤの絵文字で書かれた『ポポル・ヴフ』が存在したらしいが、キリスト教の布教を進める宣教師たちによってその類の書物はほとんどが焼き捨てられ残っていないという。
マヤ文明の末裔であるグァテマラのキチェー族の神話で、世界の創造から人類と日月星の誕生を経て、キチェー族の初期の王族の事績が語られる。最後に歴代の王の系譜があり、ここにスペインに征服された王族の名前が出ていることから、上述のようにおおよその成立時期が推定されている。
ヒメ―ネス神父は同書の西洋語への最初の翻訳者でもあり、「エクアトリアル」の歌詞はヒメ―ネス訳によっているが、この日本語訳は20世紀に出た新しいスペイン語訳からの重訳である。
「エクアトリアル」の歌詞に相当する箇所は、おそらく訳本の142頁(第3部第3章)の一部だと思う。CDのライナーノーツにあった短い説明と歌詞(英訳)を見て目くるめく悲劇を思い浮かべつつ訳本を手に取ったのだが、かなりの勘違いをしていたことがわかった。それでも、特に前半(第一部と、とりわけ第二部)はおもしろかった。
『ポポル・ヴフ』全編の最後はこんなふうに終わっている。
そのむかし諸王がもっていた『ポポル・ヴフ』の書はすでに失われて、もうどこにも見ることができないが、これがキチェー族の生活であった。征服されるとはまことに恐ろしいことではないか。
今日、サンタ・クルスとよばれているキチェーの国の人々は、もうみな滅びてしまった。 (215頁)
2009年6月13日土曜日
コルタサル短編集
◆木村榮一訳『コルタサル短編集 悪魔の涎・追い求める男 他八篇』(1992,岩波文庫)
「たまには小説も読もう」と思いつつなかなか読めないので短編集を読むことにしたのだが、最初の3篇を読んで長期間ほったらかしになっていた。2泊の出張ということで期待もせずにカバンに入れたのだが、楽しく読めた。
訳がとてもこなれていて読みやすかったせいもあると思う。このところ「日本語としてどうよ」という翻訳にずっと付き合っていたので、翻訳者の力量をしみじみ感じた(もちろん、スペイン語はわからないけど)。しかし、訳者による「解説」でのフロイトやエリアーデまで援用したコルタサル論はちょっとどうかと思う(コルタサルの本をはじめて読んだ私がこんなことを言うのもどうかと思うが)。
「追い求める男」を読んだら、チャーリー・パーカーの話なので驚いた(冒頭に「イン・メモリアム・Ch.P.」とある)。作中、パーカーは「ジョニー・カーター」という名前になっているが、マイルス・デイヴィス、ジョン・ルイス、レナード・フェザーなどジャズ・ファンにはおなじみの名前がそのまま出てくる。ニカ夫人も「侯爵夫人」という名前で登場し、こちらはそれなりに重要な役割を演じている。
「解説」によると、この小説を収めた短編集は1959年に出版されているという。パーカーが亡くなった1955年から4年のうちに書かれたことになるが、故人を直接よく知る人も多数存命でその印象もまだ新しいであろうこういうタイミングでこういう小説を書いたということにも、微妙な驚きを感じる。
それはともかく、チャーリー・パーカー論として面白かった。奇抜なことが書かれているわけではなく、50年後の私が読んでもすんなり腑に落ちて、「パーカーを聴きなおしてみようか」という気にさせられた。
2009年6月7日日曜日
2009年6月6日土曜日
イギリス型〈豊かさ〉の真実
◆林信吾『イギリス型〈豊かさ〉の真実』(2009,講談社現代新書)
NHS (National Health Service) による医療費無料制を中心に、イギリスの医療・福祉制度(と教育制度も少し)とその実態の見聞を書いた本。イギリスの事情に疎いので、興味を持って読める情報は多かった。実態をよく知らない国に長期間滞在しようとする外国人がありがたがる類のネタで、「ある人がこんなこと言ってました」程度のものも多い(残念ながらイギリス訪問の予定はない)。
そういう『地球の暮らし方』的な本としてはいいが、随所に差し込まれる著者の意見はあらずもがなで、どれも思いつきとか思い込みの域を出ないのではないか。
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