2009年10月3日土曜日
音楽の聴き方
◆岡田暁生 『音楽の聴き方 聴く型と趣味を語る言葉』(2009,中公新書)
同じ著者の同じく中公新書の『西洋音楽史』を読んで(内容はまったく記憶していないが)よかったという記憶があり、大いに期待して読んだ。
第1章 音楽と共鳴するとき ――「内なる図書館」を作る
第2章 音楽を語る言葉を探す ――神学修辞から「わざ言語」へ
第3章 音楽を読む ――言語としての音楽
第4章 音楽はポータブルか? ――複文化の中で音楽を聴く
第5章 アマチュアの権利 ――してみなければ分からない
という構成で、はじめに「はじめに」があり、終わりに「おわりに」「文献ガイド」「あとがき」と続く。
19世紀以来の音楽の商業化に由来する「する」/「聴く」/「語る」の分裂とそこで生まれた「音楽は語れない」「音楽は言葉ではない」というイデオロギーを批判し、翻って、「音楽は言葉で(も)ある」という認識を持つこと、「する」/「聴く」/「語る」を統合することを「音楽の聴き方」として提案している。
音楽を「断ち切ってはいけないもの」とする第1章での「聴く」ことの(一見実存的な)倫理が、第2章以下の音楽を言葉として把握する歴史的議論やそれにもとづく「語る」こと「する」ことのすすめとどう関係しているのかが、なかなかつかめなかった。しかし、これは考えてみれば簡単な話で、「音楽を断ち切ってはいけない」は「音楽は言葉だ」という主張を補助線として「人の話は最後まで聞きましょう」と翻訳されるのだろう。このように考えると、本書全体の議論としての発起点は第1章ではなく「音楽は言葉である」と主張する第3章にあることがわかる。
音楽が言語と似た性格を持つこと、「感性」だけで語れるものではないことは、否定できないし否定する必要もないと思う(というか、著者にまったく賛成だ)。しかし、「音楽は言葉である」という主張を受け容れようとすると、ただちに「ではいかなる意味において言葉なのか」(裏返せば「いかなる点において言葉と異なるか」)という疑問が湧いてこないだろうか。著者の議論がその手前で止まってしまっていることに不満を感じる。
言語にあって音楽にないものというと、たとえば真偽の別が思い浮かぶ。著者は第3章で音楽の形態論・統語論とともに意味論についても簡単に触れているが、言葉の意味というものは(少なくともその一部は)真偽の区別を前提としてはじめて成り立つものではないだろうか。著者は擬音、音型が惹起する感情、楽器の象徴などを意味の例として挙げているけれども、これらは意味というよりただの連想に過ぎない、ともいえないだろうか。連想は連想を呼びその連鎖には際限がないから、そこにはふつうの意味での論理も存在しえないだろう。
鳥が囀り獣が咆えるようにわれらの祖先が発していたであろう分節を持つ呟き、律動を帯びた唸り、他者を突き動かす叫びには、真偽もなければ論理もなかっただろう。言語と音楽が未分のそういう状態から、それぞれは何を失い何を得て片や言語となり片や音楽になったのか、そしてまたそのそれぞれはかつての片割れと遠く呼び合いながら今どこへ進もうとしているのか。私はそういうことが知りたいと思う。
この本を読み終えてから、この本への不満を出発点として考えたことをなんとかうまくまとめられないか骨を折ってみた(10月はじめに読み終えて今日は11月23日だ)が、うまくいかなかった。この不満はこれまでの私自身の音楽観への不満でもあり、そういう不満を少なくとも抱きはじめることができるようになったのは、今まで自分がぼんやりと考えていたことを著者がずっと明確にしかも豊かな教養の裏づけをもって言葉にしてくれたからこそだと思う。少なくとも私にとっては生産的な読書だった。
興味を惹かれる話題やおもしろいネタ(ドビュッシーの「ペレアスとメリザンド」に対するリヒアルト・シュトラウスの反応とか)もふんだんに盛り込まれており、また、いずれ聴いてみたいと思った音楽や読んでみようかなという気にさせられた書物の固有名詞(シュナーベルのシューベルトとかジェズアルドとかパウル・ベッカーとか)がいくつも収集できたのもありがたい。
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