◆日本エッセイスト・クラブ編 『'08年度ベスト・エッセイ集/美女という災難』(2011, 文春文庫)
営業を仕事にしているので、魅力ある語り口に関心があり、最近の日本語はどうなっているのか、いろいろな文を読んでみたいと思ってこういう本を買った。
同じ目的で詩集を読んだことがあるが、私好みの詩は実人生での発話にはあまり向かず役に立たなかった(何冊か読んだ中で杉本真維子『袖口の動物』が気に入った)。
それで「エッセイ」となったわけだが、この語は今やかなり恥ずかしい。
いかにも昔かっこいい言葉だった感がある。
促音「ッ」も、「セー」とゆるく延ばすのでなく「セイ」と断ち切る表記も、気取りが鼻につく。
それに輪をかけて「エッセイスト」、チョーダサい。
もし「わたし日本エッセイスト・クラブの会員でして・・・」とか自己紹介されたら、心臓バクバクしそう。
恥ずかしいタイトルの本を買った言い訳や照れ隠しはここまでにする。
2007年に発表された雑文が54編収録されている。
書かれている情報として面白いものはそれなりにあったが、語り口というか文の書きぶりの点での収穫は多くなかった。
でもこれだけたくさん並べられると巧拙がよく出ると感じた。それが収穫かも。
巻頭は大事だと思うが、なんでこんなのを持ってくるかなあ。副詞と慣用句で体裁を繕う外国語作文みたい。
サイテーだったのはさるノンフィクションライターの文。クリシェ漬けの、ビジネス敬語とヨイショがうるさい、若手営業マンが書いたような文章。
車谷長吉、出久根達郎は名前をよく見る(読んだことないけど)作家だけあり、ふつうにかつ作家的にうまいと思う。
池部良は俳優だが素晴らしい。
しかし、最高の一品は安嶋彌「最近イギリス漫語」だ。
名前を聞いたこともないけど、元役人らしい。
英国のあれこれについて興の向くままに蘊蓄が披露されていく。
「この人は一体何を言いたいのだろう」と面食らう。
面食らいつつ、その悠然たる進行が醸す風格に気圧される。
言いたいことなんかないだろう。蘊蓄を傾けそれをネタにちょっと頭の体操をしてみせるだけ。
役所ではきっと偉い人で通っていたんではないかという気もする。
この人が昨年出版したエッセイ集は既に品切れのようだ。文庫化されたら(されないと思うが)読んでみたい。
「エッセイ」というのは、人生をあがった人が隠居の立場から無責任好き放題に書くものにこそふさわしい名称である気がする。老人の繰り言の中身は適当にスルーしつつ、その口吻からそこはかとなく偲ばれる人徳や威光を味わうべきものだろう。
そして、「エッセイ」の語はかなり昔に賞味期限が切れているので、今後は「漫語」を採用することを提案したい。
2012年1月29日日曜日
2009年11月8日日曜日
カーネギー自伝
◆ アンドリュー・カーネギー 著 / 坂西志保 訳 『カーネギー自伝』 (2002,中公文庫)
「カーネギー・ホール」(なんかかっこいい)や「カーネギー・メロン大学」(かなりこっけい)にその名を残す米国の鉄鋼王の自伝。文字どおり立志伝中の人物の立志伝である。
スコットランドの貧しい家庭に生まれ、家族とともに新大陸に移住した幼少期から、ペンシルヴァニア鉄道会社に勤務し後に自ら実業家として活躍する青壮年期を経て、金儲けから手を引き慈善家、社会活動家に転進する晩年と、3つの時期が順に描かれ、それぞれにおもしろくもあり教訓も与えてくれるのだが、個人的にいちばん興味深かったのは晩年の部分だ。
マーク・トウェインやハーバート・スペンサーから合衆国大統領、ドイツ皇帝まで幅広い有名人との交友が語られる。批評家のマシュー・アーノルドをビリングスというコメディアンと引き合わせ意気投合させるエピソードなどは、まさに多方面の有名人に顔が利く財産家ならではのはたらきだと思う。その一方で、手に触れる物すべてを黄金に変えてしまうミダス王のような人生を想像してしまうのは貧乏人のやっかみだろうか。
カーネギーが魅力的な人物であったことは間違いないと思う。しかしまた、この本の後半に登場する有名無名の人々が彼に向けて発する言葉やふるまいのいちいちに、彼の財産がおのずから影を落としてしまうことは否定できないだろう。そしてまた、そういういわば私的な領域が一切ない人生を、腐りもせず拗ねもせずに受け容れることができた人物というのは(この本を読む限り、著者は決して鈍感なおめでたい人ではないだろう)、やはり凡人の理解の範囲を超えた傑物であると思うのだ。
2009年10月25日日曜日
イノベーションのジレンマ
◆クレイトン・クリステンセン 著 玉田俊平太 監修 / 伊豆原弓 訳 『イノベーションのジレンマ 増補改訂版』(2001年,翔泳社)
続編『イノベーションへの解』の主な論点はほとんどがこの第1弾に出ていて、しかもこちらの方がわかりやすく上手にまとめられている。翻訳もずっとこなれている。
2009年10月14日水曜日
〈象徴形式〉としての遠近法
◆ E. パノフスキー 著 / 木田元 監訳 / 川戸れい子 上村清雄 訳 『〈象徴形式〉としての遠近法』 (2009,ちくま学芸文庫)
本文が70ページあまりなのに対して注が110ページ超というちょっと珍しいボリューム比。更に30数ページの図版。原著は1924-25年に発表されている。
「古代から近代までの絵画などにおける遠近法のありようから、それぞれの時代の人々にとっての世界像が読み取れるよ」という話で、「近代人は三次元の座標軸によって体系化される空間をあたりまえのものと思っているけど、それが完成されるルネサンス以前はそうではなかったんだ」という主張が、大変な学殖によって具体化される。
それだけなら「そうかもしれないけど、そうじゃないかもしれないね」ということになるのだが、パノフスキーのすごいところは、われわれにとって自明な中心遠近法が現実をありのままに表すものではない(目は2つあるし、網膜は球面であるから)ことを、初っ端の第1章でのテクニカルな議論によって明快に示している点である。
続編として 「〈象徴形式〉としての対位法」「〈象徴形式〉としての写生」 「〈象徴形式〉としての句読法」などもぜひ残してほしかった。
2009年10月10日土曜日
イノベーションへの解
◆クレイトン・クリステンセン/マイケル・レイナー 著 玉田俊平太 監修 / 櫻井祐子 訳 『イノベーションへの解』(2003年,翔泳社)
クリステンセンの前著でもっと有名な『イノベーションのジレンマ』の続編にあたる。書店で迷ったが、切実なところでやはり「ジレンマ」よりも「解」が欲しかったので、正編をとばして続編から読むことになった。
「持続的イノベーションの結果、製品が顧客の要求を超えてしまい、よりお手軽な製品をローコストで提供する破壊的イノベーションが勝利を収める」という、『イノベーションのジレンマ』で提示されたのであろう洞察を出発点として、破壊的イノベーションを成功に導くための条件が様々な観点から論じられる。
起点になっているアイディアには「なるほど」と感じ入ったが、それに続く条件画定の議論もそれぞれに程度の差はあれ説得力がある。
ビジネス書は時々読んで参考にさせてもらっているが、実地で使ってみて当たらぬも八卦、当たればOK程度のものというこれまでの認識を改めさせられた。また、(矛盾するようだが)この種の本はそれこそピンキリで、スタージョンの法則が強化された形であてはまる世界だと思ってはいたが、これほどのピンがあるとは思わなかった。ハーヴァード・ビジネス・スクールおそるべし。
訳はちょっと読みにくかった。『イノベーションのジレンマ』もいずれ読まねば。
2009年10月3日土曜日
音楽の聴き方
◆岡田暁生 『音楽の聴き方 聴く型と趣味を語る言葉』(2009,中公新書)
同じ著者の同じく中公新書の『西洋音楽史』を読んで(内容はまったく記憶していないが)よかったという記憶があり、大いに期待して読んだ。
第1章 音楽と共鳴するとき ――「内なる図書館」を作る
第2章 音楽を語る言葉を探す ――神学修辞から「わざ言語」へ
第3章 音楽を読む ――言語としての音楽
第4章 音楽はポータブルか? ――複文化の中で音楽を聴く
第5章 アマチュアの権利 ――してみなければ分からない
という構成で、はじめに「はじめに」があり、終わりに「おわりに」「文献ガイド」「あとがき」と続く。
19世紀以来の音楽の商業化に由来する「する」/「聴く」/「語る」の分裂とそこで生まれた「音楽は語れない」「音楽は言葉ではない」というイデオロギーを批判し、翻って、「音楽は言葉で(も)ある」という認識を持つこと、「する」/「聴く」/「語る」を統合することを「音楽の聴き方」として提案している。
音楽を「断ち切ってはいけないもの」とする第1章での「聴く」ことの(一見実存的な)倫理が、第2章以下の音楽を言葉として把握する歴史的議論やそれにもとづく「語る」こと「する」ことのすすめとどう関係しているのかが、なかなかつかめなかった。しかし、これは考えてみれば簡単な話で、「音楽を断ち切ってはいけない」は「音楽は言葉だ」という主張を補助線として「人の話は最後まで聞きましょう」と翻訳されるのだろう。このように考えると、本書全体の議論としての発起点は第1章ではなく「音楽は言葉である」と主張する第3章にあることがわかる。
音楽が言語と似た性格を持つこと、「感性」だけで語れるものではないことは、否定できないし否定する必要もないと思う(というか、著者にまったく賛成だ)。しかし、「音楽は言葉である」という主張を受け容れようとすると、ただちに「ではいかなる意味において言葉なのか」(裏返せば「いかなる点において言葉と異なるか」)という疑問が湧いてこないだろうか。著者の議論がその手前で止まってしまっていることに不満を感じる。
言語にあって音楽にないものというと、たとえば真偽の別が思い浮かぶ。著者は第3章で音楽の形態論・統語論とともに意味論についても簡単に触れているが、言葉の意味というものは(少なくともその一部は)真偽の区別を前提としてはじめて成り立つものではないだろうか。著者は擬音、音型が惹起する感情、楽器の象徴などを意味の例として挙げているけれども、これらは意味というよりただの連想に過ぎない、ともいえないだろうか。連想は連想を呼びその連鎖には際限がないから、そこにはふつうの意味での論理も存在しえないだろう。
鳥が囀り獣が咆えるようにわれらの祖先が発していたであろう分節を持つ呟き、律動を帯びた唸り、他者を突き動かす叫びには、真偽もなければ論理もなかっただろう。言語と音楽が未分のそういう状態から、それぞれは何を失い何を得て片や言語となり片や音楽になったのか、そしてまたそのそれぞれはかつての片割れと遠く呼び合いながら今どこへ進もうとしているのか。私はそういうことが知りたいと思う。
この本を読み終えてから、この本への不満を出発点として考えたことをなんとかうまくまとめられないか骨を折ってみた(10月はじめに読み終えて今日は11月23日だ)が、うまくいかなかった。この不満はこれまでの私自身の音楽観への不満でもあり、そういう不満を少なくとも抱きはじめることができるようになったのは、今まで自分がぼんやりと考えていたことを著者がずっと明確にしかも豊かな教養の裏づけをもって言葉にしてくれたからこそだと思う。少なくとも私にとっては生産的な読書だった。
興味を惹かれる話題やおもしろいネタ(ドビュッシーの「ペレアスとメリザンド」に対するリヒアルト・シュトラウスの反応とか)もふんだんに盛り込まれており、また、いずれ聴いてみたいと思った音楽や読んでみようかなという気にさせられた書物の固有名詞(シュナーベルのシューベルトとかジェズアルドとかパウル・ベッカーとか)がいくつも収集できたのもありがたい。
行動経済学
◆友野典男 『行動経済学 経済は「感情」で動いている』(2006,光文社新書)
1年以上前から会社の車のドアポケットに入れっぱなしにしてあって、仕事の合間にコンビニの駐車場でコーヒーを飲むときなどにちびちびと読んでいたのが、ようやく終わった。
合理的な経済人という仮定の上に組み立てられていた旧来の経済学に対して、必ずしも合理的ではない現実の人間行動を踏まえた経済学が行動経済学ということのようだ。
学会誌に発表されたいろいろな心理実験に基づく研究が次から次に紹介されていた気がするが、細切れの読書でしかも長い期間をかけてようやく読了したため、その内容はあまり覚えていない。
そもそも、第1章最初に出てくる確率問題(第2章で「モンティ・ホール・ジレンマ」という名前が与えられる)が納得できずにつまずいたというのもある。でも場合分けをして計算してみると確かに書かれているとおりになる。自分がいかに限定合理的か身をもって知らされた。
新書の標準的なレベルからは考えられないほど情報量が多く、この分野の動向を概観するにはきっととてもよい本なのだろう。ただ、私は読書の仕方を失敗した。もったいない読み方をしてしまった(いまさら読み直す気にもならないし)。
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