2009年11月8日日曜日

カーネギー自伝


◆ アンドリュー・カーネギー 著 / 坂西志保 訳 『カーネギー自伝』 (2002,中公文庫)

「カーネギー・ホール」(なんかかっこいい)や「カーネギー・メロン大学」(かなりこっけい)にその名を残す米国の鉄鋼王の自伝。文字どおり立志伝中の人物の立志伝である。

スコットランドの貧しい家庭に生まれ、家族とともに新大陸に移住した幼少期から、ペンシルヴァニア鉄道会社に勤務し後に自ら実業家として活躍する青壮年期を経て、金儲けから手を引き慈善家、社会活動家に転進する晩年と、3つの時期が順に描かれ、それぞれにおもしろくもあり教訓も与えてくれるのだが、個人的にいちばん興味深かったのは晩年の部分だ。

マーク・トウェインやハーバート・スペンサーから合衆国大統領、ドイツ皇帝まで幅広い有名人との交友が語られる。批評家のマシュー・アーノルドをビリングスというコメディアンと引き合わせ意気投合させるエピソードなどは、まさに多方面の有名人に顔が利く財産家ならではのはたらきだと思う。その一方で、手に触れる物すべてを黄金に変えてしまうミダス王のような人生を想像してしまうのは貧乏人のやっかみだろうか。

カーネギーが魅力的な人物であったことは間違いないと思う。しかしまた、この本の後半に登場する有名無名の人々が彼に向けて発する言葉やふるまいのいちいちに、彼の財産がおのずから影を落としてしまうことは否定できないだろう。そしてまた、そういういわば私的な領域が一切ない人生を、腐りもせず拗ねもせずに受け容れることができた人物というのは(この本を読む限り、著者は決して鈍感なおめでたい人ではないだろう)、やはり凡人の理解の範囲を超えた傑物であると思うのだ。

2009年10月25日日曜日

イノベーションのジレンマ


◆クレイトン・クリステンセン 著 玉田俊平太 監修 / 伊豆原弓 訳 『イノベーションのジレンマ 増補改訂版』(2001年,翔泳社)

続編『イノベーションへの解』の主な論点はほとんどがこの第1弾に出ていて、しかもこちらの方がわかりやすく上手にまとめられている。翻訳もずっとこなれている。

2009年10月14日水曜日

〈象徴形式〉としての遠近法


◆ E. パノフスキー 著 / 木田元 監訳 / 川戸れい子 上村清雄 訳 『〈象徴形式〉としての遠近法』 (2009,ちくま学芸文庫)

本文が70ページあまりなのに対して注が110ページ超というちょっと珍しいボリューム比。更に30数ページの図版。原著は1924-25年に発表されている。

「古代から近代までの絵画などにおける遠近法のありようから、それぞれの時代の人々にとっての世界像が読み取れるよ」という話で、「近代人は三次元の座標軸によって体系化される空間をあたりまえのものと思っているけど、それが完成されるルネサンス以前はそうではなかったんだ」という主張が、大変な学殖によって具体化される。

それだけなら「そうかもしれないけど、そうじゃないかもしれないね」ということになるのだが、パノフスキーのすごいところは、われわれにとって自明な中心遠近法が現実をありのままに表すものではない(目は2つあるし、網膜は球面であるから)ことを、初っ端の第1章でのテクニカルな議論によって明快に示している点である。

続編として 「〈象徴形式〉としての対位法」「〈象徴形式〉としての写生」 「〈象徴形式〉としての句読法」などもぜひ残してほしかった。

2009年10月10日土曜日

イノベーションへの解


◆クレイトン・クリステンセン/マイケル・レイナー 著 玉田俊平太 監修 / 櫻井祐子 訳 『イノベーションへの解』(2003年,翔泳社)

クリステンセンの前著でもっと有名な『イノベーションのジレンマ』の続編にあたる。書店で迷ったが、切実なところでやはり「ジレンマ」よりも「解」が欲しかったので、正編をとばして続編から読むことになった。

「持続的イノベーションの結果、製品が顧客の要求を超えてしまい、よりお手軽な製品をローコストで提供する破壊的イノベーションが勝利を収める」という、『イノベーションのジレンマ』で提示されたのであろう洞察を出発点として、破壊的イノベーションを成功に導くための条件が様々な観点から論じられる。

起点になっているアイディアには「なるほど」と感じ入ったが、それに続く条件画定の議論もそれぞれに程度の差はあれ説得力がある。

ビジネス書は時々読んで参考にさせてもらっているが、実地で使ってみて当たらぬも八卦、当たればOK程度のものというこれまでの認識を改めさせられた。また、(矛盾するようだが)この種の本はそれこそピンキリで、スタージョンの法則が強化された形であてはまる世界だと思ってはいたが、これほどのピンがあるとは思わなかった。ハーヴァード・ビジネス・スクールおそるべし。

訳はちょっと読みにくかった。『イノベーションのジレンマ』もいずれ読まねば。

2009年10月3日土曜日

音楽の聴き方


◆岡田暁生 『音楽の聴き方 聴く型と趣味を語る言葉』(2009,中公新書)

同じ著者の同じく中公新書の『西洋音楽史』を読んで(内容はまったく記憶していないが)よかったという記憶があり、大いに期待して読んだ。

 第1章 音楽と共鳴するとき ――「内なる図書館」を作る
 第2章 音楽を語る言葉を探す ――神学修辞から「わざ言語」へ
 第3章 音楽を読む ――言語としての音楽
 第4章 音楽はポータブルか? ――複文化の中で音楽を聴く
 第5章 アマチュアの権利 ――してみなければ分からない

という構成で、はじめに「はじめに」があり、終わりに「おわりに」「文献ガイド」「あとがき」と続く。

19世紀以来の音楽の商業化に由来する「する」/「聴く」/「語る」の分裂とそこで生まれた「音楽は語れない」「音楽は言葉ではない」というイデオロギーを批判し、翻って、「音楽は言葉で(も)ある」という認識を持つこと、「する」/「聴く」/「語る」を統合することを「音楽の聴き方」として提案している。

音楽を「断ち切ってはいけないもの」とする第1章での「聴く」ことの(一見実存的な)倫理が、第2章以下の音楽を言葉として把握する歴史的議論やそれにもとづく「語る」こと「する」ことのすすめとどう関係しているのかが、なかなかつかめなかった。しかし、これは考えてみれば簡単な話で、「音楽を断ち切ってはいけない」は「音楽は言葉だ」という主張を補助線として「人の話は最後まで聞きましょう」と翻訳されるのだろう。このように考えると、本書全体の議論としての発起点は第1章ではなく「音楽は言葉である」と主張する第3章にあることがわかる。

音楽が言語と似た性格を持つこと、「感性」だけで語れるものではないことは、否定できないし否定する必要もないと思う(というか、著者にまったく賛成だ)。しかし、「音楽は言葉である」という主張を受け容れようとすると、ただちに「ではいかなる意味において言葉なのか」(裏返せば「いかなる点において言葉と異なるか」)という疑問が湧いてこないだろうか。著者の議論がその手前で止まってしまっていることに不満を感じる。

言語にあって音楽にないものというと、たとえば真偽の別が思い浮かぶ。著者は第3章で音楽の形態論・統語論とともに意味論についても簡単に触れているが、言葉の意味というものは(少なくともその一部は)真偽の区別を前提としてはじめて成り立つものではないだろうか。著者は擬音、音型が惹起する感情、楽器の象徴などを意味の例として挙げているけれども、これらは意味というよりただの連想に過ぎない、ともいえないだろうか。連想は連想を呼びその連鎖には際限がないから、そこにはふつうの意味での論理も存在しえないだろう。

鳥が囀り獣が咆えるようにわれらの祖先が発していたであろう分節を持つ呟き、律動を帯びた唸り、他者を突き動かす叫びには、真偽もなければ論理もなかっただろう。言語と音楽が未分のそういう状態から、それぞれは何を失い何を得て片や言語となり片や音楽になったのか、そしてまたそのそれぞれはかつての片割れと遠く呼び合いながら今どこへ進もうとしているのか。私はそういうことが知りたいと思う。

この本を読み終えてから、この本への不満を出発点として考えたことをなんとかうまくまとめられないか骨を折ってみた(10月はじめに読み終えて今日は11月23日だ)が、うまくいかなかった。この不満はこれまでの私自身の音楽観への不満でもあり、そういう不満を少なくとも抱きはじめることができるようになったのは、今まで自分がぼんやりと考えていたことを著者がずっと明確にしかも豊かな教養の裏づけをもって言葉にしてくれたからこそだと思う。少なくとも私にとっては生産的な読書だった。

興味を惹かれる話題やおもしろいネタ(ドビュッシーの「ペレアスとメリザンド」に対するリヒアルト・シュトラウスの反応とか)もふんだんに盛り込まれており、また、いずれ聴いてみたいと思った音楽や読んでみようかなという気にさせられた書物の固有名詞(シュナーベルのシューベルトとかジェズアルドとかパウル・ベッカーとか)がいくつも収集できたのもありがたい。

行動経済学


◆友野典男 『行動経済学 経済は「感情」で動いている』(2006,光文社新書)

1年以上前から会社の車のドアポケットに入れっぱなしにしてあって、仕事の合間にコンビニの駐車場でコーヒーを飲むときなどにちびちびと読んでいたのが、ようやく終わった。

合理的な経済人という仮定の上に組み立てられていた旧来の経済学に対して、必ずしも合理的ではない現実の人間行動を踏まえた経済学が行動経済学ということのようだ。

学会誌に発表されたいろいろな心理実験に基づく研究が次から次に紹介されていた気がするが、細切れの読書でしかも長い期間をかけてようやく読了したため、その内容はあまり覚えていない。

そもそも、第1章最初に出てくる確率問題(第2章で「モンティ・ホール・ジレンマ」という名前が与えられる)が納得できずにつまずいたというのもある。でも場合分けをして計算してみると確かに書かれているとおりになる。自分がいかに限定合理的か身をもって知らされた。

新書の標準的なレベルからは考えられないほど情報量が多く、この分野の動向を概観するにはきっととてもよい本なのだろう。ただ、私は読書の仕方を失敗した。もったいない読み方をしてしまった(いまさら読み直す気にもならないし)。

2009年9月27日日曜日

アメリカ言語哲学入門


◆冨田恭彦 『アメリカ言語哲学入門』(2007,ちくま学芸文庫)

序章的な第Ⅰ部を除けば、20世紀後半のアメリカ言語哲学を紹介する前半(第Ⅱ部)とそこで得られた視点をもとに近世哲学史を振り返る後半(第Ⅲ部)からなる。これだけでもちょっとヘンな構成だが、第Ⅱ部で大きな紙幅を割いて取り上げられるのが、サール、ローティ、クワインの3人。ふつうの分析哲学の入門書ではない。

サールを紹介する部分は後ろとのつながりもこじつけめいているし、内容的にもおもしろくない。クワイン=デイヴィドソン=ローティという反表象主義の系譜を描きたいのだから、もともと共感もないサールよりデイヴィドソンをもっと詳しく取り上げて欲しかった。

ローティにはイロモノのイメージがあるが、そういう先入観を超えて「けっこう重要な人かも」と思わされた。それくらい魅力的に紹介されている。

第Ⅱ部の最後に「補論」として、クワインの哲学が「二つのドグマ」以前の時代にまで遡って紹介されている。それがたいへんわかりやすくためになった。この本でいちばんよかったところ。

第Ⅲ部はデカルトとロックをおもに扱っているが、これもおもしろい。ロックなど退屈な上にスキだらけのボンクラ哲学者と思っている人は多いと思うが(自分のことです)、それは大まちがいのようだ。

構成に疑問は残るが、全般に説明がわかりやすいし、切り口もおもしろく、議論にも説得力がある、いい本だと思う。ただ、細かく参考文献を挙げている注で、著者自身の名前がくどいほど出るのに、他に日本人の名前が(訳書の訳者名すら)一切出てこないのはどうしたことだろう。日本の研究者など相手にしない(参照していない)ということかもしれないが、日本語読者への入門書としてはやはりどうかと思う。

このごろ「分析哲学」という言葉をあまり聞かなくなった。というか、この言葉がいつのまにか古色を帯びた。その後、英米の哲学は形而上学へと舵を切ったとうわさに聞くが、「言語主義的ノミナリズム」はどう清算されたのだろう。

2009年9月21日月曜日

致命的な思いあがり


◆ハイエク全集Ⅱ-1 渡辺幹雄 訳 『致命的な思いあがり』(2009,春秋社)

ハイエクの最後の著書だが、完成前に著者が再起不能状態に陥ったため、バートリーⅢ世という人が完成してハイエクの生前に出版している。

おもしろかった、というか蒙を啓かれる感があった。原著には「社会主義の誤り The Errors of Socialism」という副題がついているが、単なる社会主義論駁以上の洞察に満ちている。論も明快だし、ハイエクの最初の1冊としては『自由の条件』よりもこの本の方がいいのではないかと思う(訳文もずっとまともだし)。

特に第1章「本能と理性のあいだ」の、人間の文化・道徳・習慣を本能と理性のどちらにも属さない進化的過程と位置付ける議論は、たいへん啓発的だった。

文化的進化は先月読んだ『ダーウィン文化論』のテーマだが、同書が(その原題 Darwinizing Culture が示すように)「文化現象をダーウィニズムで解明しましょう」というスタンスからの議論であるのに対して、ハイエクは「(道徳や市場秩序などの)文化現象は進化的過程である」という発想の源流をヒューム、スミス、ファーガソンら18世紀スコットランドの思想家にまで遡り、ダーウィンの生物進化論はむしろその影響下で誕生したのだとする(この議論はたしか『自由の条件』にもあった)。
※ 『ダーウィン文化論』は正確にはミーム論なので、議論の焦点は単に「文化現象の伝播はダーウィン的(進化的ないし適応的)過程か?」ではなく、むしろ「文化現象の伝播はドーキンス的(複製子ないし利己的複製子による)過程か?」にある。ダーウィン自身は遺伝のメカニズムとしてメンデル的粒子説に思い到らず融合説しか持ち合わせていなかったことを考えると、なおさらこの本のタイトルはミスリーディングであり、Neo-Darwinizing Culture とか Dawkinsizing Culture とした方が内容を正確に反映するだろう(商品名としてどうかというのはあるけど)。
文化現象の進化を考える時、生物進化論から学ぶことが多いことに疑いはないが、基本的な道筋としては、ミーム論のように生物進化論のアイディアを性急に移植するよりも、ハイエクが示す伝統から出発する方がはるかに健全であると思う。

ところで、唐突な話だが、ハイエクの着眼点はカフカを悩ませた謎に通じるものがあるといえないだろうか。人間の道徳やルールを「本能と理性のあいだ」の進化的過程として位置づける議論は、カフカにおける「掟、法 Gesetz」の問題を解決するわけではないにしても、この問題の謎的性格を払拭するのに役立つと思うのだ。「掟の問題 Zur Frage der Gesetze」(岩波文庫『カフカ寓話集』所収)や有名な「掟の門前 Vor dem Gesetz」(同『カフカ短編集』所収)を読むと、カフカにハイエクを教えてあげたくなる。

第6章「交易と貨幣の神秘的な世界」は、商いに携わる者をこんなに励ましてくれる文章は読んだことがないというほどの、一編の散文詩のように美しい商人讃歌だ(うーん、「商」という字があるだけで滑稽味を帯びるのは困ったものだ)。江戸の昔から蔑まれ続けてきたわれらの積年の溜飲を下げてくれる、商売人、営業マン、金融関係者必読のテキストである。

2009年8月30日日曜日

ダーウィン文化論


◆ロバート・アンジェ編 / 佐倉統・巌谷薫・鈴木崇史・坪井りん訳 『ダーウィン文化論 科学としてのミーム』(2004,産業図書)

それぞれに哲学・生物学・心理学・人類学などのバックグラウンドを持つ研究者たちがミーム論について論じた論文を集めた本。多数の著者による論文集ながら、このテーマで開かれた学術会議が下敷きになっており、それぞれの論が相互に参照され、多様な論があるていど整理され組織されている。

ドーキンスやデネットの著作でミームについて読んだ時はとても魅力的なアイディアだと思ったものだが、実はいろいろと問題がある概念で、ミーム学の展望は明るくないことがわかった。事実、一般への受けは良くてミームを切り口にしたビジネス書みたいな本まで出版され邦訳もされている一方で、ミーム学のウェブ学術誌 Journal of Memetics は2005年で休刊となっている。

文化現象を考える上でのダーウィン的な選択という切り口の有効性が否定されるわけではないが、それを学問として実りあるところまで持っていくのは少なくとも現時点では非常に困難だし、いつか実現するとしてもそれは素朴なミーム論という形でではなさそうだ。

人類学者の論文が2本あり、自分が人類学について何も知らないし知ろうともしてこなかったことに改めて気付かされた。今更ながら、おもしろそうな分野だと思う。

翻訳はうまくないし、そもそも意味が取れているのか疑問に思うこともしばしば。読み手の理解力の問題も大きいかもしれないが、何を言っているのかさっぱりわからない箇所が多々あった。

2009年8月29日土曜日

今こそアーレントを読み直す


◆仲正昌樹 『今こそアーレントを読み直す』(2009,講談社現代新書)

ハンナ・アーレントの入門書。分かりやすく、「アーレントの著作を読んでみようかな」と思わされた(でもちょっとしんどいかも)のだから、入門書としての役割は果たされたことになるだろう。アーレントは左派の活動家的な人と勝手にイメージしていたのだが、全然違うようだ。

2009年8月9日日曜日

旧体制と大革命


◆アレクシス・ド・トクヴィル著/小山勉訳 『旧体制と大革命』(1998,ちくま学芸文庫)

『アメリカのデモクラシー』で有名なトクヴィル(1805-59) 晩年の「フランス革命に関する研究書」。1789年の革命に至る旧体制を分析した部分のみが生前に出版され、フランス革命そのものを取り上げる続編は研究ノートが残されただけで未完。この訳書は生前出版された部分の訳で、「1789年以前と以後におけるフランスの社会・政治状態」という著者30歳ごろの短い論文を併録している。

全体は「序文」プラス全3部(プラス「補遺」)の構成になっているが、論が向かっている方向に着目すると、「フランスの中央集権体制は革命によって突如出現したものではなく、封建的社会体制から中央集権制への移行は旧体制においてほとんど完成していた」と主張する前半と、「旧体制はどのような点において1789年の革命を準備したか」をテーマとする後半とに、(第2部第7章あたりで)分けることができるだろう。

封建制から中央集権制への流れは貴族における自由の喪失に、旧体制から革命への流れは平民における平等の要求に重ねられ、自由と隷従、平等と特権が歴史の中で運命劇さながら絡み合い、大革命へと流れ込もうとする。

通説にとらわれずに往時の史料を読み込み、それぞれの階級が置かれた位置を的確に把握する手腕はみごとで、たとえば、267ページ以下の聖職者階級の描写など、シェイクスピア的な共感の才を感じさせる。

もっと知恵がついてからまた読み返したい。『アメリカのデモクラシー』も読もう。

2009年8月1日土曜日

停電の夜に


◆ジュンパ・ラヒリ著/小川高義訳『停電の夜に』(2003,新潮文庫)

アメリカのベンガル系女流作家の第一短編集。収められている9編はどれも、暮らしている社会に対してマイナーな位置に置かれたどちらかというと孤独な人々を取り上げ、訳者が「あとがき」で書いているように、広い意味での異文化間(インドとアメリカが顕著な例だが必ずしもそれだけではない)の交流とかすれ違いを描いている。エスニック・テイストも適度に利いている。

優秀な作家だと思うが、「競争熾烈なマーケットで頭角を現すために上手な小説を書きました」という感じがしてしまうのは(現代のアメリカの作家への)偏見だろうか。ピュリツァー賞まで取って確固たる地歩を占め、自分がやりたいことをできるようになったはずのこの本以降が本領発揮かと思う(その後の作品も数冊翻訳が出ているようだ)。

その萌芽が予感されるという点で、短編集の最後に置かれ、発表されたのも最後の「三度目で最後の大陸」が一番よかった。この小説もうまいのだけど、同じうまいでも他の作品よりグレードが一つ上がっている感じだ。

驚くべき斬新さや洞察あるいは深遠な思想があるわけではないが、小説好きな人が読んで楽しめる本だと思う。

2009年7月20日月曜日

自由論


◆ミル著/山岡洋一訳『自由論』(2006,光文社古典新訳文庫)

読まず嫌いだったミル(高校の教科書か何かで見た肖像が醜かったからかもしれない)を読んでみた。
第1章 はじめに
第2章 思想と言論の自由
第3章 幸福の要素としての自由
第4章 個人に対する社会の権威の限界
第5章 原則の適用
という章立てで、第2章が論の組み立ても明快で力も入っている。世の中を生きていると、特に勤め人などしていると、反対意見などにいちいち耳を傾けるのが煩わしくなり、他人の言論を圧殺したくなることがある。そういう時には、ミルの議論を思い出せば少しは落ち着きを取り戻せるかもしれない。

思想と言論の自由を擁護する理由はいくつか挙げられているが、中でも、反対意見を禁じて論争がなくなれば正しい意見であっても生命力が失われるから、というのには感心した。「決着がついた問題は深い眠りにつく」(99ページ)。

ミルの文章はパラグラフが長く、数ページに渡ることも珍しくない。そして、少し話がくどい。

2009年7月12日日曜日

進化論の射程


◆エリオット・ソーバー著/松本俊吉+網谷祐一+森元良太訳 『進化論の射程 生物学の哲学入門』(2009,春秋社)

章立ては次のようになっている。
第1章 進化論とは何か
第2章 創造論
第3章 適応度
第4章 選択の単位の問題
第5章 適応主義
第6章 体系学
第7章 社会生物学と進化理論の拡張
7年ばかり前にドーキンスの『利己的遺伝子』やデネットの『ダーウィンの危険な思想』を読んでかぶれた身ゆえ、第4章と第5章、それに第7章あたりを楽しみに読み始めたのだが、全巻とてもおもしろく、たいへんためになった。キリスト教徒以外にはとても関心が持てないと思われた第2章のような話題でもしっかり読ませる内容がある。

ドーキンスやデネットの心酔者にとって、ルウォンティンといえば憎きグールドの腰巾着というか(エルドリッジとともに)助さん格さん的存在だが、著者ソーバーは一時そのルウォンティンの研究室にも籍を置き、共同論文も発表している。で、本書ではドーキンスについて多数の言及があり、特に上記第4章、第5章では予想に違わず論難の対象になっている(ちなみに、デネットの名は一度も出てこない)。

しかし、ソーバーの論述はその名のとおり実に冷静沈着で、説得力がある。intuition pump フル稼動のデネットとは全然ちがう。ドーキンスの扱いだって、デネットがグールド一味を遇する時のような「論敵」的なものではまったくない。「提唱者の態度や動機の適切性と理論そのものの妥当性とは別問題。肝心なのは人ではなくて命題」というスタンスが、繰り返し表明される。

生物学の哲学の教科書なのだが、随所でより広く科学哲学あるいは哲学一般に通じる視野のもとに、ヒューム、ポパー、パトナムなどを俎上に乗せて鋭いツッコミを入れている。

翻訳はたいへん読み易い。気になったのは、巻末の参考文献に一切邦訳のデータがなかったこと。入門書・教科書という性格からして、やはり配慮があってしかるべきだったのではないか(先日読んだ同じ出版社の本では、訳文は実に読みにくかったが、注で挙げられた文献の邦訳データの充実ぶりがハンパでなかった)。

74ページに「2619通り」とあるのは「26の19乗通り」の間違いだろう。107ページにも横のものを縦にする際のミスが見られた(「左側の論証」)。それから、誤植かと思ったら私が思い違いをしていただけだったのだが、'Maynard Smith' ('Maynard-Smith' に非ず)は、これで一つの苗字なのですね(Wikipedia注記)。

2009年7月9日木曜日

チャンドス卿の手紙


◆ホフマンスタール著/檜山哲彦訳『チャンドス卿の手紙 他十篇』(1991,岩波文庫)

ホフマンスタールの初期から中期にあたる、21歳から40歳までの短い散文を集めた本。

「人は死に直面した時にしかフルボディの現実を味わうことはできないのだ」と云わんばかりのニヒルな作風の最初期の小説から、死と向き合って日々を営む生命への共感に力点を移した「チャンドス卿の手紙」を経て、その後の作品ではこの種の共感(あるいはその不在)が様々な場面に敷衍される。

「詩についての対話」と題された一編での、象徴を犠牲との類比で捉え、これらをともに成り立たせているのは共感であると論じる件りは、たいへんインパクトがあった。

ホフマンスタールの云う「生命への共感」において、「生命」は半ば神秘、半ば科学の対象という鵺的存在である。そういう「生命」に対してなぜ「共感」が生まれるのかもよくわからない(何しろ神秘ですから)。・・・読んでいるうちにそんな不満を抱いたのだが、これは私のアプローチの仕方が間違っている。ホフマンスタールは別に生命論をやろうとしていたわけではないのだ。

「生命」というのは共感の対象に対して仮に与えられた名前にすぎない。ホフマンスタールの作品は読者を共感へと共振させる装置であり、共感の対象は作品の中で開示される、というか、その対象を名指すことができても、そのことにはあまり意味がない(『戦争と平和』を「ロシアの祖国戦争時代の貴族の話」と呼ぶことにあまり意味がないように)。

以上、ホフマンスタールの本質が掴めるかなと一瞬思って考えてみたのだが、「この人は作家です」に等しいトリヴィアルな結論に終わった。残念。

2009年6月27日土曜日

私という病


◆中村うさぎ『私という病』(2008,新潮文庫)

先週末テレビを見ていたら、千原兄弟が中村うさぎのプチ整形手術に同行するという番組をやっていた。中村うさぎという人のことは昔週刊誌のコラムか何か(たぶん「ショッピングの女王」)をちらりと読んで、「なんか危なっかしい人だなあ」という印象があった。そのテレビの番組も途中ちょっと見ただけだが、「突き抜けた人だなあ、おもしろいかも」と、アマゾンで「中村うさぎ」のトップに出ていたこの本を買った。

「デリヘル嬢をやってみた」という話で、そういえばそんな雑誌記事の広告を見た記憶もあり、それよりずっと前に「ホストクラブに通っている」という話もどこかで読んだ気がする。実はなんとなくずっと注目していたわけだ。

才気煥発な人かと思っていたが、一冊読んでみると、むしろ泥臭い、ある意味堅実な人。論理展開が冗長で辟易するところもあるが、「なるほど」と教えられるところは多い。

たとえば、女がミニスカートをはくのは、男を誘惑するためだけでなく、他の女への誇示でもある、とか。言われれば当たり前なのだが、私がおやじだからか思い至らなかった(さすがに、「オレを誘惑するため」と思ったことはないが)。

後半、「眠れる姫と魔女」(124ページ)あたりからが佳境だ。「お姫様な私」に対して「魔女な私」が「いい加減に夢から醒めてよ」と苛立つところを読みつつ心中で「そうだ、そうだ」と激しく同意したのだが、そんなことをしたら「シワシワになって死んでしまう」という現実を突きつけられると、グウの音も出なかった。

「突き抜けた女」の話と思って読み始めたのが、だんだんに世間との軋轢の中でもがく自意識の不幸と恍惚の話になり、けっこう身につまされて他人事ではなくなっていく。

勝者にもなれないけど、茨姫になってまで戦うこともなく、急激にシワシワにもならず、しかし時間をかけて緩慢にシワシワになっていくというのが、男女を問わず世間一般の多くの人だろう。著者がそうならないのは、すべてのことに白黒(勝者と敗者、敵と味方)をつけようとして、曖昧さを許さないからだろう。

意識もしないし積極的な内容があるわけでもないこの曖昧さのおかげで、私たちは急激に萎むこともなく生きながらえている。それは別に立派なことではないが、間違っているわけでもない。そもそもすべてに白黒がつけられるわけではないのだから。

理不尽や悪を糾弾する箇所には共感させられるところも多いが、著者が白黒つける性急さとそのコントラストの強さには違和感を感じた。勝者と敗者の意味(振り分け方)は時間が経てば変わるし、敵と味方だっていつのまにか入れ替わる。「敵」ってそんなに簡単に一般化できるわけでもないし、「味方」だってそんなにいいもんじゃないんじゃないか、と私は思うのだ。

でも、この人ならではの知見に満ちた、特に男が読んでためになる本だと思う。

2009年6月14日日曜日

ポポル・ヴフ


◆『マヤ神話 ポポル・ヴフ』 A・レシーノス原訳/林屋永吉訳(2001,中公文庫)

エドガー・ヴァレーズの「エクアトリアル」をナケント・ナガノのCDで聴き、その解説で歌詞が『ポポル・ヴフ』のスペイン語訳から採られていることを知り、早速本を手に入れて読んでみた(アマゾンでは品切れになっているが、HMVやセブンアンドワイではまだ手に入るようだ。私は書店で買った)。

この『ポポル・ヴフ』は、スペインによる征服後の16世紀に現地のキチェー語で(征服者から学んだ)アルファベットを使って書かれた文書で、18世紀にヒメ―ネス神父によって発見され西洋世界にもたらされた。それ以前にもマヤの絵文字で書かれた『ポポル・ヴフ』が存在したらしいが、キリスト教の布教を進める宣教師たちによってその類の書物はほとんどが焼き捨てられ残っていないという。

マヤ文明の末裔であるグァテマラのキチェー族の神話で、世界の創造から人類と日月星の誕生を経て、キチェー族の初期の王族の事績が語られる。最後に歴代の王の系譜があり、ここにスペインに征服された王族の名前が出ていることから、上述のようにおおよその成立時期が推定されている。

ヒメ―ネス神父は同書の西洋語への最初の翻訳者でもあり、「エクアトリアル」の歌詞はヒメ―ネス訳によっているが、この日本語訳は20世紀に出た新しいスペイン語訳からの重訳である。

「エクアトリアル」の歌詞に相当する箇所は、おそらく訳本の142頁(第3部第3章)の一部だと思う。CDのライナーノーツにあった短い説明と歌詞(英訳)を見て目くるめく悲劇を思い浮かべつつ訳本を手に取ったのだが、かなりの勘違いをしていたことがわかった。それでも、特に前半(第一部と、とりわけ第二部)はおもしろかった。

『ポポル・ヴフ』全編の最後はこんなふうに終わっている。
そのむかし諸王がもっていた『ポポル・ヴフ』の書はすでに失われて、もうどこにも見ることができないが、これがキチェー族の生活であった。
今日、サンタ・クルスとよばれているキチェーの国の人々は、もうみな滅びてしまった。 (215頁)
征服されるとはまことに恐ろしいことではないか。

2009年6月13日土曜日

コルタサル短編集


◆木村榮一訳『コルタサル短編集 悪魔の涎・追い求める男 他八篇』(1992,岩波文庫)

「たまには小説も読もう」と思いつつなかなか読めないので短編集を読むことにしたのだが、最初の3篇を読んで長期間ほったらかしになっていた。2泊の出張ということで期待もせずにカバンに入れたのだが、楽しく読めた。

訳がとてもこなれていて読みやすかったせいもあると思う。このところ「日本語としてどうよ」という翻訳にずっと付き合っていたので、翻訳者の力量をしみじみ感じた(もちろん、スペイン語はわからないけど)。しかし、訳者による「解説」でのフロイトやエリアーデまで援用したコルタサル論はちょっとどうかと思う(コルタサルの本をはじめて読んだ私がこんなことを言うのもどうかと思うが)。

「追い求める男」を読んだら、チャーリー・パーカーの話なので驚いた(冒頭に「イン・メモリアム・Ch.P.」とある)。作中、パーカーは「ジョニー・カーター」という名前になっているが、マイルス・デイヴィス、ジョン・ルイス、レナード・フェザーなどジャズ・ファンにはおなじみの名前がそのまま出てくる。ニカ夫人も「侯爵夫人」という名前で登場し、こちらはそれなりに重要な役割を演じている。

「解説」によると、この小説を収めた短編集は1959年に出版されているという。パーカーが亡くなった1955年から4年のうちに書かれたことになるが、故人を直接よく知る人も多数存命でその印象もまだ新しいであろうこういうタイミングでこういう小説を書いたということにも、微妙な驚きを感じる。

それはともかく、チャーリー・パーカー論として面白かった。奇抜なことが書かれているわけではなく、50年後の私が読んでもすんなり腑に落ちて、「パーカーを聴きなおしてみようか」という気にさせられた。

2009年6月7日日曜日

自由の条件


◆新版ハイエク全集Ⅰ-5 気賀健三・古賀勝次郎 訳 『自由の条件[Ⅲ] 福祉国家における自由』(2007,春秋社)

『自由の条件』、GWから読み始めてようやく読み終えた。

2009年6月6日土曜日

イギリス型〈豊かさ〉の真実


◆林信吾『イギリス型〈豊かさ〉の真実』(2009,講談社現代新書)

NHS (National Health Service) による医療費無料制を中心に、イギリスの医療・福祉制度(と教育制度も少し)とその実態の見聞を書いた本。イギリスの事情に疎いので、興味を持って読める情報は多かった。実態をよく知らない国に長期間滞在しようとする外国人がありがたがる類のネタで、「ある人がこんなこと言ってました」程度のものも多い(残念ながらイギリス訪問の予定はない)。

そういう『地球の暮らし方』的な本としてはいいが、随所に差し込まれる著者の意見はあらずもがなで、どれも思いつきとか思い込みの域を出ないのではないか。

2009年5月21日木曜日

日本と中国


◆王敏『日本と中国――相互誤解の構造』(2008,中公新書)

マイペースで話が脱線する、怪しげな独自の統計調査が行なわれる、いつのまにか著者が外国人一般を代表してしまう。そういう引っかかる点は多々あるが、本書の基調をなす主張には心から賛同する。日本と中国は「同文同種」とはいえ異文化、全く性格を異にする文化である。そのことを理解せず、また理解しようともせずに闇雲に中国を拒絶する人が多い気がする。そういう人々も、また、中国嫌いと同様に情緒的な中国心酔家も、その思い込みゆえにいつか足元をすくわれると思う。中国人は日本人ではないのだし、日本人は中国人ではないのだから。同じであることだけがよいことではないし、同じであればすなわちよいというわけでもない。違いを認識し尊重すること、あるいはそれ以前に、違いを前提に置いて接することは、中国人であれ西洋人であれ、異文化人と付き合う上での当然の出発点だろう。

日本人が日本を理解する上で、中国という鏡を持つことの意義は計り知れない。西洋人だけを基準にするならば、その対比から知られるのは差異に過ぎない。「日本人が繊細である」ことは、「西洋人が繊細でない」ことと表裏をなすに過ぎない。第三極を得てはじめて、日本の独自性は浮かび上がる。しかもこの第三極は我々にとって千年来の師である。日本人が中国を知ることは、自らを省みる上で、他からは得られない機会を提供してくれる。